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2018年2月25日日曜日

映画『許されざる者(1992)』の感想

■映画『許されざる者(1992)』の感想




■映画の概要

荒事からは足を洗っていたウィリアム・マニーの元へ若いガンマンが訪れる。娼婦に傷を負わせ賞金をかけられた無法者を追うためだ。マニーのかつての相棒ネッドを加えた3人は追跡行に出かけるが、その頃、町の実力者の保安官ビルは疎ましい賞金稼ぎたちを袋叩きにしているところだった。やがてビルの暴力が黒人であるネッドにも及んだ…。

■映画の感想

この映画では強いガンマンが一人も出てきません。この映画には爽快な撃ち合いのシーンもほとんどありません。この映画には気弱なイーストウッドしか出てきません。しかし最後まで鑑賞しないと、この映画の本当の意味が見えて来ないはずです。

…これは「弱き者」の西部劇だと言えます。

仕事ができる男というのは何時の時代においても尊敬を受けます。それが正しい仕事であろうと、間違った仕事であろうと、その一線で命を張る男には賞賛の言葉がついて回ります。

この物語の主人公は過去に大罪を犯しました。例えそれが間違った行為だと分かっていても、彼は銃を手に持ち虐殺を繰り返したのです。そして仲間に信頼され、何時しか彼は一級の「悪党」へと成長しました。

彼にとって自分の存在価値を高められる場所が、そこにしかなかったからです。

…しかし、彼の人生はある女性との出会いで変わります。心まで血に染まった悪党に、あなたは間違っていると敢然と言い放った女性です。

幸運なことに、彼は女性の言葉を受け入れ結婚しました。自分が最も輝ける場所を捨て、彼女との生活を選んだのです。しかし数年前、不幸なことに彼女に先立たれてしまいます。

残ったのは、幼い子供と老いた自分の体だけ。この映画はそんな光景から時計の針が動き始めます。

この映画のイーストウッドは悲しいほど情けない主人公を演じています。地の果てで家畜を追い回すだけの老人で、銃はおろか馬にさえ振り回される惨めな男です。

西部劇が隆盛を謳歌していた時代に、イーストウッドという役者は間違いなく一線で活躍していた「トップスター」でした。銃を片手に悪党に立ち向かう強い男を演じたら、おそらく右に出るものはいないでしょう。

しかし、この映画にはそんなイーストウッドは出てきません。セオリー通りの西部劇を期待したらここで肩透かしを食らいます。

物語の内容はシンプルです。ある町の若い売春婦が、客の暴力行為によりナイフで切り刻まれました。町の保安官は暴力行為に及んだ客を軽い罰で許したため、売春婦のグループは復讐を考え始めます。

そして金のため復讐を請け負うことになるのが、主人公であるウィリアム・マニー(クリント・イーストウッド)なのです。

先に述べた通り、マニーは過去一級の悪党であったため、殺人には慣れているはずです。しかし老体なので、物語の前半では頼りないことこの上なく、相棒となる若い賞金稼ぎも懐疑的な目でマニーを見ます。

「本当にこの男が伝説的なアウトローなのか?」 …と。

…しかし。

時間が経過するにつれ、マニーは過去の勘を取り戻し始めます。そして銃口を人に向けた時から、彼の心の中の歯車が噛み合い出し、映画の後半は今までのもどかしさが一瞬で吹き飛ぶほど、マニーは自信に満ち溢れた悪党のオーラを纏うのです。

偽善的な正義を振りかざしていた保安官を眠らせたときは、不思議と胸がスッとした人も少なくないでしょう。

だが、この映画での賞金稼ぎの立場は、世間で言う「悪党」なのです。そして最後に目にするマニーの姿は、彼の妻が最も拒絶した人間でもあります。何かここに、世の中が強い男を追い求める矛盾に気付かされてしまうのです。

こうした物語を監督するイーストウッドという人は、もしかしたらとても不器用な性格なのかもしれません。

アメリカという国は「強い男」を執拗に追い求める体質を持っています。度胸の据わっていない、銃もまともに撃てない人間を最も嫌悪し、映画の多くは敵に照準を合わせて引き金を引く主人公ばかり賞賛します。

そんな娯楽の中にまで浸透した文化を、自分が演じる惨めな主人公を通して、不器用に警告していたのかもしれません。歴史ある西部劇のセオリーを否定したとしても、映画を通して不器用に訴えたかったのかもしれません。

また、この映画は日本でもリメイクされています。興味がある方はそちらも鑑賞してみることをオススメします。


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