「英語ができる」という勘違い
私が学生時代の頃の話。
親の仕事の都合により引っ越すことが多かった私は、多感な時期に様々な地域で友達づくりに力を注ぎました。
地域により人の心情や考え方が違い、割とオープンに受け入れてくれる環境もあれば、閉鎖的ですぐに馴染めない環境もあり、私も試行錯誤しながらコミュニケーションを図った思い出があります。
いくつかの地域に住むことで、円滑な人間関係を築くにはどうしたら良いかと振り返ると、まず『言葉の重要性』というものが第一だと私は考えたのです。
まず、引っ越し先で私が最も大切にしたのは『方言』をマスターすることでした。
方言とは面白いもので、「はい」と「いいえ」でさえ地域によって言い方が違います。
大阪弁なら「ええで」と「ちゃうな」なので、「はい」と「いいえ」の平仮名が一文字も使われていないことが分かるでしょう。
しかもこれに感情が込められた場合はバリエーションがさらに広がり、「絶対にお断りします」を大阪弁で言う場合には「ええ、ええ、そんなもんどうでもええねんほっといてくれやホンマに」くらいキツい口調で返されることもあります。
また、ほとんどの人が知らないとは思いますが、石川県の金沢ではアホやバカのことを「ダラ」と言います。
この地域で子供の喧嘩は「ダラ」の言い合いになり、私も「うっせーダラ、ダラ、ダラ!」と連発していたことを今でも覚えています。
方言は感情を込めることが非常に大切になるため、エセ関西人が大阪弁を使うとアクセントに妙な違和感を与えてしまい、喋った人が叩かれてしまう理由はここにあります。
それほど方言を覚えるのは難しく、感情を込めるまでになるには時間を要するため、まず相手の話をしっかり聞くことが大切になるのです。
こうした習慣が骨身に染み付いている私は、言葉というものがどれほど重要なのか痛いくらいに知っています。
関西に住み、標準語を喋れば仲間外れにされる可能性が高くなるため、いつまでも地域に馴染めないまま学生時代を送るかもしれません。
「方言が喋れないくらいで大袈裟な」と思うかもしれませんが、私の経験上、方言を喋った方が友達ができやすかったのは事実です。
…ふと考えると、これって語学学習にも通じるような気がしませんか?
日本の英語教育のダメなところは、教科書の内容を覚えることに終始し、SOV型の文法など余計な方向から教える所にあると思います。
方言に正しい文法を求めないのと同じで、外国の方も文法をイチイチ確かめながら話している訳ではありません。
言葉は余計なものを削ぎ落してくると本質が見え出します。
人間は本当に言いたい言葉に感情を込める生き物なので、映画でも「F●ck」が聞き取りやすいのはこのためなのです。
そして日本の英語教育のさらに悪い点は、「英語ができる」ことに重きを置いており、相手の心情を理解するのは二の次になっています。
TOEIC900点以上の人より、英語が片言でも酒場で外国の人と一緒に酒を飲んで盛り上がれる人の方がよっぽど海外で活躍できます。
TOEICは「英語ができる」かを見るための目安にはなりますが、問題全般はほぼクイズ形式のため、実際のコミュニケーションに役立つかは別問題になるはず。
本当に大切なのは相手を理解すること、そして興味を持つことです。
方言はその地域の人や文化に興味を持たなければ習得できないツールです。
語学学習もそれと同じで、まず相手と喋ることがスタートラインであり、頭に聞きたいことを浮かべて話すことができ、相手の心情を察しながら理解し合うことが大切だと思います。
例え語学の理解力が不足していたとしても、ジェスチャーやスマホの翻訳ツールなど何でも活用すれば良いですし、「通じればOK!」くらいの余裕があれば相手にも安心感が伝わりますよ。