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2021年8月18日水曜日

終劇を迎えた『エヴァンゲリオン』について

 


さらば、全てのエヴァンゲリオン


『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』もAmazon Primeなどで動画配信が始まり、この夏休みで鑑賞したという方も多いかと思われます。


熱狂的なファンなら公開初日の映画館に足を運んだはずなので、この何日かは物語の考察のために繰り返し観ている人もいるかもしれません。


私は熱狂的なファンという訳ではありませんが、若い頃に観た視聴者として、当時の異様とも思える注目度の高さは今でも鮮明に覚えています。


最近でブームになったアニメに『鬼滅の刃』がありますが、『エヴァンゲリオン』の盛り上がり方とは毛色がまったく違うんですよね。


それこそ好きだ嫌いだと単純に分けられるものではなく、「物議を醸す」という言葉がピッタリと当て嵌まるといった具合です。


……しかし終わりまで長かった。


テレビでの初回放送が1995年の10月4日ですから、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の2021年3月8日の公開で、およそ26年の歳月を費やしたことになります。


26年ともなると、10歳の子供でもすでに36歳ですよ。


『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開が2007年だったことを考えると、そのままポンポンと制作がスムーズに続いて2010年代前半に終えれば、ギリギリ20代の年齢で観れた人も多かったと思いますが、残念ながら『Q(2012年公開)』で急ブレーキが掛かりました。


この9年のブランクはさすがに大きかったと思います。


30代を迎えるとすでに家庭を持つ人がいる訳で、「碇シンジ」という少年を自分に置き換えることなく父親、もしくは母親の目線で見てしまう可能性があるからです。


それで良かったという人もいるかもしれませんが、鑑賞中に心の置き場が違うため、少しもったいなかったなというのが私の率直な感想でした。


……さて、前置きはここまでにして、以下からネタバレを含む『エヴァンゲリオン』というコンテンツの総括的な感想を述べたいと思います。


※以下から重要なネタバレを語るためご注意ください!


それぞれのエンディングについて



『エヴァンゲリオン』のエンディングは全部で4つあります。


・TV版のセラピーエンド

・旧劇場版のアスカと二人きりエンド

・漫画版(通称:貞本エヴァ)の明城学院前駅エンド

・シン劇場版のマリと一緒な宇部新川駅エンド


【TV版のセラピーエンド】


まずは最初のTV版セラピーエンド(最終話『世界の中心でアイを叫んだけもの』)ですが、これはもう初見の人にとっては訳が分からない終わり方です。


今までのアニメにはないエンディングで注目を集めたというのもありますが、あまりのぶっ壊れ具合に、制作者の精神状態を心配した人がいたかもしれません。


調べると「エヴァが社会現象となり、結末への注目が高まっていた放送時において、物語の完結を放棄した庵野秀明に対する批判は放送後に集中した」とあるため、この頃から狂信的なファンが多くいたと思われます。


実際、制作のトップである庵野秀明監督は、放送終了後のネット掲示板を読んで精神を病んでしまい、その出来事が後の旧劇場版に大きく影響することになります。


【旧劇場版のアスカと二人きりエンド】


そしてエヴァンゲリオンを伝説的なアニメにしたのが『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』です。


その後、L.C.L.の海が広がる世界の白い砂浜に一切の反応を示さないアスカと共に横たわっていたシンジは、補完された世界で最後まで自分を拒絶したアスカの首を絞めていくが、その最中に彼女から頬を撫でられる。アスカの真意に気づき、首を絞めるのを止めて嗚咽するシンジに、アスカは「気持ち悪い」と言い放つのだった。

―Wikipediaより


正直な話、この終わり方もかなりぶっ壊れています。


謎だらけで終わってしまったため、様々な考察がファンの間で行われて盛り上がった経緯もありますが、物語としては完全に破綻していると言っても過言ではないでしょう。


TV版のモヤモヤに追い打ちを掛けるようなこの結末……しかも社会現象になっていたアニメなので、今ならSNSで炎上騒ぎとなっていた可能性が高いと思われます。


庵野監督は当時「日本のオタク(狂信的なファン)はそろそろ現実に帰るべきだ」と言っていたくらいなので、エヴァンゲリオンに対する情熱は失われていたのかもしれません。


【漫画版(通称:貞本エヴァ)の明城学院前駅エンド】


しばらくエヴァは庵野監督の手から離れますが、並行して「貞本エヴァ」と呼ばれる漫画版の連載が1995年から始まっていました。


アニメ版に先行する形で連載が開始していたため、2000年代には終わりを迎えただろうと思われがちですが、実際は2013年で完結しました……こちらも地味に長かったです。


基本線はアニメを踏襲しつつも、コミカライズにあたり執筆を手掛ける貞本によって、ストーリー進行やキャラクターの性格に独自の解釈がなされ再構成されている。貞本はアニメと漫画のフォーマットの違いを意識し、対象年齢を14、5歳に想定しつつも「難しすぎて下がらない」と語ったうえで、「神の視点」であるアニメに対して、少ない情報量で分かりやすくし、主人公の心の流れを軸にエヴァの世界観を見ることを心がけた。

―Wikipediaより


つまり、庵野エヴァのような難解さを排除し、主人公の活躍に焦点を当てた物語を作ろうとする姿勢が伺えます。


その姿勢は結末にもはっきり表れていました、一言で表現するなら「誰もが納得できるハッピーエンド」です。


シンジの両親はいないとしても、本人は自立して生きていく力強さを感じますし、なによりTV版(精神崩壊)、旧劇場版(シンジに首を絞められる)、新劇場版(クローンの元ネタ)で悲惨な立場にあった「惣流・アスカ・ラングレー」が唯一救われます。


読んだ人の誰もが「そうそう、こういうので良いんだよ」と思ったのではないでしょうか?


【シン劇場版のマリと一緒な宇部新川駅エンド】


物議を醸した「シンジはアスカではなくマリを相方として選んだ」とか「マリは庵野監督の嫁である安野モヨコさんの分身」とかの考察はさておき、新劇場版での結末は「漫画版のハッピーエンドを少し薄めた感じ」という印象でした。


……とはいえ、あの流れで「式波・アスカ・ラングレー」が最後に出てもおかしいし、下手をすると漫画版の二番煎じになるため、こうするより仕方なかったのかな? と、勘繰ってしまいます。


初期の頃は、TV版のエヴァンゲリオンも大団円で終わる予定だったそうですが、漫画版や新劇場版のような終わりを迎えた場合、あそこまで話題を集められたかは疑問が残りますし、この新劇場版には会えなかったかもしれません。


そういう意味で『エヴァンゲリオン』というコンテンツは(監督の本意ではないとしても)、長きに渡って成功を収めた珍しい事例だと思います。


さようなら、全てのエヴァンゲリオン



庵野監督が手掛けた『エヴァンゲリオン』を一言で表現するなら、私は「クトゥルフ神話に人間失格のエッセンスをぶっ込んだ感じ」と言っています。


ラヴクラフトの『クトゥルフ神話』は、語尾に「神話」がくっ付いていても神様の物語ではなく、出て来るアイテムは各国の神話(宗教的なものを含む)に結び付いた衒学的なものばかりです。


太宰治の『人間失格』は、哲学的に人間の本質を語ろうとしていますが、実際は作者の人生観や体験談を述べているに過ぎないため、狭いコミュニティの中でのお話です。


エヴァンゲリオンもキリスト教に関わる様々なアイテムが出ますが、あくまで物語の進行に必要なだけであって、最後まで神話や宗教色が濃い印象はありません。


また、人類補完計画など壮大なシナリオに沿って各キャラクターが行動しているように見えるも、よくよく考えれば碇ゲンドウは「嫁さんに会いたい」という極めて利己的な感情で動いていますし、主人公の碇シンジに至っては「父親に愛されたい、認められたい」という願いから、最後は人類の存亡をかけた(?)親子喧嘩に発展しています。


壮大なように見えて狭いコミュニティの中でのお話……というのが『エヴァンゲリオン』の率直な感想ですね。


最後に、庵野監督は登場人物に対してあまりに辛く当たり過ぎたのか、新劇場版にあった「第3村」は、償いの意味が込められた癒しの場だったと私は勝手に思っています。


映画全体の尺を考慮した場合、第3村の出来事にあそこまで時間を割く必要はないはずです。


しかしながら、シンジを含めレイやアスカが「人の心」を取り戻すには、あの幸せな生活が必要だったのでしょう。


……そういう意味で、結末がどうあろうとシンジたちはすでに救われており、全ての作品を通して観る価値があったと言えるのかもしれません。

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